さて。天気の子を観てきました(唐突)。
感傷に浸りながら家に帰ったら気づいたらこの記事ができていた。
結局、2編構成になってしまったがどちらも自分にとって大事な文章になったので読んでくれると嬉しい。
時間がない人は中編の文章だけでも読んでいってほしい。これにすべてが詰まっている(たぶん)。
それでは。
天気の子。
この文章を書いている時点ではまだ小説は読んでおらず、映画も1回しか見ていない時点で書いている。
後編では2週目、小説を既読した時点での話になっているのでより詰められた文章を読みたいという人はそちらだけでも読んでいただけるとありがたい
映画をレビューするのは難しい。
映画をレビューするにあたって、どこに焦点を当てるかでだいぶと文章の書き方が変わってくるように思う。
ただの感想文なら「映像が綺麗だった」「最後の落ちが好きじゃない」みたいなことを書けばいいんだけれど、
レビューでそんな上っ面な文章を書くのは悪だと思っていて。
僕は映画評論家ではないし、数多くの映画を観てきたわけじゃないし、ちゃんとした評論は違うサイトを観てもらえればと思う。
新海誠といえば映像がきれいなことで有名だが、それを映画の良さと表現してしまうのはナンセンスだと思っている。
映画の良さは監督が伝えたいことがしっかりと伝わったか、映像を通して何かを感じたのか。にあると考えているからだ。
それを「映像が綺麗=良い映画」だったという形にしてしまうのは本当にナンセンスというかもったいない。
それぞれのエゴ。
それじゃあ、何がこの映画によって伝えられたのか。
「僕たちはこの世界の美しさも、醜さも、儚さも、悲しさも、自分たちで決めることができる」
「僕たちは自分自身でこの世界を定義することができる」
「すべての人が、みんな自分だけの世界を持ち、その世界の中で必死に生きている。」
これらは全て、音楽を担当したRADWIMPSの野田洋次郎の言葉だが、その通りだと思った。
というより、僕がもともと書いていた文章よりも野田洋次郎の言葉のほうが適切と思ったからだ。
そして
「映画は正しかったり模範的だったりする必要はなく、むしろ教科書では語られないことを(中略)語るべきだと、僕は今さらにあらためて思ったのだ。」
(新海誠の言葉)につながってくるのだと思った。
それらは、自分を犠牲にしてまで助けたいと思い、行動したり、最終的に世界がどうなってもいいから(という表現で正しいのか)彼女を助けた帆高や、
自分のことを優先し、一度は帆高を捨てた(という表現でいいのか)須賀。
それぞれのエゴが重なり合って、この物語が作り上げられたのだと。
自分を一番に優先した須賀も正義だし、補導のために帆高を捕まえた警察も正義。
彼女を助けるというその全てのために拳銃を発砲した帆高も正義。そのほかの全員がそれぞれの正義をもって行動している。
それらをすべてまとめたのが上記にある野田洋次郎の言葉と新海誠の言葉に詰められていると感じた。
銃はだめですけどね。
ただ東京に逃げてきただけの帆高が須賀と出会って、拳銃を拾って、彼女と出会って、警察に追われて。でもそれが世界なんだ。それが現実なんだと。
最後の責任を感じてしまう帆高も自由だし、もともと世界はこうだったと開き直るのも自由。
須賀の「世界はもともと荒れ狂っている」と思うのも自由。
そうやって作られた作品が新海誠が監督をして創り上げた「天気の子」なのではないか。
最後、落ちに賛否両論あるみたいだが、それぞれのエゴが重なったんだから全てが丸く収まるわけがなく。
「あそこまで夢中になれるのも羨ましい」っていう警察の人の発言にも詰まっているんじゃないかなぁと。
これをメリバ(主人公視点はハッピー、観測視点はバット。逆も然り)と分類するのかバットエンドというのか。
主人公たちも助かった!!やった!!みたいな終わり方ではなく、僕たちのせいで…と感じてしまうところを見ると完全なメリバではない気も。
僕は全てが丸く収まるよりも、人間味があったほうが好きなので「天気の子」は僕にぶっ刺さりました。
このまま映画の描写などにも触れていきたいが、これらは小説を読んで、2周目を観た後に理解を深めたうえで書きたいので後半で。
【中編】
【後編】
次回の記事でお会いしましょう。
ありがとうございました。Twitter